御由緒


【御由緒】

進雄神社は貞観(じょうがん)十一年(869年)に各地で疫病が蔓延していた際、
時の清和天皇の詔(みことのり)(天皇の命令)により
尾州(びしゅう)(現在の愛知県西部)津島神社から神様をお招きして今の場所にお祀りしたのが始まりです。
以来、健康・厄除をはじめ御神徳の篤いお社として崇敬されてまいりました。


源頼義公は天喜(てんぎ)五年(1057年)に奥州へ向かわれる折には武運長久を願われ、
凱旋にあたっては社殿の修造・神領の寄進をされました。
戦国時代の武田、上杉、北条などの武将たちの戦勝祈禱文書や社家の安堵状(権利を保証する書状)が今に伝えられ、
篤く崇拝された様子がしのばれます。
寛永十一年(1634年)には徳川家光公より御朱印地三十石(幕府から神社に管理が認められた土地)が寄進され、
以来幕末まで続いておりました。


古文書1
「天王社領上野国群馬郡 柴崎村之内参拾石事任 先規乞寄附之訖全可
収納并社中山林竹林等 如有来弥不可有相違者也 仍如件」
寛永十九年九月二十四日 家光 (朱印)

古文書2
上杉憲寛公戦勝祈祷文書大永6年(1526年)
「為出陣祈祷 巻数一合給畢 喜入候恐々謹言」
大永6年丙戌9月十三日 憲寛 花押
上州天王左門太夫殿

日本では昔から「神様と仏様は同じ存在である」という神仏習合の考えに基づいていましたが、
明治初年に神様と仏様は別の存在なので神様は神社に、仏様はお寺にお祀りするという神仏分離が行われ、
「天王宮」と親しまれていた当神社でも「進雄神社」と名前を変えることとなりました。
当時の宮司が雄大に進むようと願いを込め、主祭神であるスサノオの命様を社号としたそうです。
平成三年(1991年)には鎮座千百二十年を記念して総檜、権現造りの御社殿を新築いたしました。




【速須佐之男命について】

伊邪那岐命(いざなぎ)が黄泉国より戻って禊をした際、鼻を濯いだときに生また神。
同じく左右の目から生まれた天照大神・月読命とあわせて三貴子と称される。
伊邪那岐から海の支配を命じられたが、母神である伊耶那美命(いざなみ)のいる根の国に行きたいと願い、
天照のいる高天原へ別れの挨拶に向かうと、天照はスサノオが攻めてきたと疑いを持ったため、
誓約(うけひ)を行い身の潔白を証明する。
その後高天原に留まったが粗暴に振る舞い、怒った天照が天の岩屋へ隠れてしまったため、高天原を追放される。

出雲国へ降ると、その地を荒らしている八岐大蛇(やまたのおろち)に生け贄にされそうになっている稲田姫命と出会う。
スサノオはオロチを退治すると、稲田姫命を妻に迎え、出雲の須賀に留まった。
その際に、

八雲(やくも)立つ
出雲八重垣(いずも やえがき)
妻籠(つまごみ)に
八重垣(やえがき)作る
その八重垣(やえがき)を

と詠み、これは日本最初の和歌とされる。


絵馬
八岐大蛇を退治する速須佐之男命の絵馬



【捻れ杉について】

戦国時代、社家を務めていた高井家が武田の命により伊藤太夫というものに取って代わられたことがありましたが、
神楽の面が夜な夜なご神木の上にて火を吐く等して伊藤太夫を悩ませたため、面を埋めて退散しました。
その後高井家が再任され、面を掘り出しそこに杉を植えると不思議なねじれた幹となったため、
「神楽塚の捻れ杉」と呼ばれます。


神楽面
社宝「火吹きの神楽面」

杉
「捻れ杉」駐車場より西、ミニストップ向かいの神楽塚にございます。